表バージョン
キイ~ッ。
クラブやカラオケパブが入った飲食ビルの三階にある小さなカウンターバー。今日も僕はその重たい鉄の扉を開けた。
「こんばんは」
いつものあいさつ。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中にいる、この店のオーナーバーテンダーである佐藤氏の声に導かれて、僕は店の中に足を踏み入れた。
奥に長いカウンターに、スツールが十席。この店の客席はこれだけ。ボックスの無いカウンターだけの造りと、余計な装飾を一切排したインテリアのために、いたって居心地のいい落ち着いた店だ。
深夜一時。
いつもならば落ち着いて飲める時間帯だったが、今日は仕事上がりのクラブのお姉さん達が自分の店のお客さん達と来ているようで、いつに無く賑やかに店を彩っていた。
「え~っと、ドンゾイロをください」
かろうじて一つだけ空いていた入り口に一番近い席に腰を下ろすと、忙しそうにオーダーをさばく合間を縫ってやってきた佐藤氏に、僕はシェリー酒の銘柄を告げた。
「ドンゾイロですね。はい」
そう言うと、佐藤氏はバックバーの酒棚の上にある扉を開け、そこからシェリーグラスを取り出した。
この店は余計な装飾が無いどころか、ライトアップされた酒のボトル以外は、グラス類も含めてすべて戸棚の中に収納されている。だから、一見すると殺風景とも思えるほどシンプルな造りをしているが、かえってゆっくり飲る時には目障りでなくていい。そう僕は思っている。
そして、インテリアの基調色は茶色と黒という渋めの色調だが、考えてみればこういったシンプルな造りの店は、東京にはたくさんあっても、案外横浜には少ないような気がする。
トゥルルル。
シェリー酒のグラスを傾けながらボ~ッと他愛の無い物思いにふけっていると、ふいに電話のベルが鳴った。と、それに応えるようにカウンターの奥の席で携帯電話に出る女性の声が響いた。
「もしも~し。お疲れ様~ぁ」
元気な女性の声が店内に響く。さっきまでも十分すぎるほどに賑やかだった店内のトーンがさらに上がった。
「ふぅ~っ」
僕は小さくため息をついた。
元々携帯電話というものがあまり好きではない僕にとって、静かなバーで静かに飲みたい時の他人の携帯電話というものは、決して歓迎できるものではない。まして、どういうわけか携帯電話に出る時は誰もが一様に声が大きく、より通るようになるから余計だ。
とは言っても、マスターである佐藤氏がそれを黙認している以上、僕としてはただ黙ってこの店の流儀に従うだけだ。ま、いずれにせよ後いくらもしないうちに彼女らも帰るだろう。
そう考え直して、僕は空になったグラスを佐藤氏に差し出した。そして、ドンゾイロのお代わりをもう一杯。
「佐藤さん、チェックして」
そんな僕の気持ちを知ってか知らずか、隣の席のカップルが佐藤氏にそう声をかけた。そして程なくして先ほどの電話の女性陣も……。
それから小一時間後、店には僕と佐藤氏、そしていい加減酔っ払っているカップルが一組 だけとなっていた。
「お疲れ様」
僕は、ようやく手が空いて落ち着いた佐藤氏に声をかけた。
「ありがとうございます。すいません、なんかバタバタしちゃって」
そう言って内ポケットから取り出した煙草に火をつける佐藤氏。
バーでバーテンダーが煙草を吸うなんて! と、眉をしかめる向きもあろう。しかし、少なくとも僕にとっては、そんな等身大の佐藤氏が応対をしてくれるという方が、変に気負ったところが無くて実に心地よかった。
そう言えば彼が店をオープンするにあたって『ストイックなスタイルはやめよう』と思ったという話を聞いたことがあった。
仕事中の酒も煙草も止めてクールなバーテンダーになろうと思えば、彼は十分すぎるくらいなれるだろうが、少なくとも僕にとってはそういうスタイルよりも今のスタイルの方が気楽でいい。
まぁ、もっともそれもすべて、オーナーバーテンダーだからこそできる事ではあったろうが……。
「それじゃあ、久しぶりになんかカクテルでも貰おうかな」
「はい」
僕のそんな台詞に、佐藤氏は手を洗いながら応える。
「え~っとね、それじゃマンハッタンをビルドのロックで」
「かしこまりました」
うなずきながら、背後の戸棚からロックグラスを取り出す佐藤氏。そして、ライウイスキー<オーバーホルト>のボトルを手に取る。
「ドライめのほうがいいですか?」
「うん、そうしてください」
そして彼は、さらに冷蔵庫からベルモットのボトルを取り出した。
僕はそんな彼の手元に目をやった。と、やっぱりグラスに氷を入れる時に、一つ一つトングでつかんだ後一度水にさらして氷の角を取ってからグラスに入れる姿が目に付いた。
佐藤氏はすべからくがこんな調子で、一杯一杯のカクテルに気を使って作ってくれるから嬉しい。そして、それはまたどんなに店が忙しい時でもすこしも崩れることが無く、ましてどこも無理をした感じが無く自然にこなすから凄い。
「オレンジピールどうします?」
「あ、お願いします」
彼の言葉に、僕は答えた。
それから彼は、グラスの上でオレンジの皮の小片を軽く一度だけ絞り、グラスの中に落とした。よくある形だけのバーでやたらとアクションだけ派手なバーテンダーとは明らかに違う動きだ。
いくら堅苦しくない応対をしているからといって、安っぽい印象はこれっぽっちも無く、どころかリッチな気分で酒を飲ませてくれるのは彼のこんな無駄が無く、それでいて小気味いい一つ一つの仕草が実に堂に入っているからだろう。
「お待たせしました」
「どうも」
軽く応えると僕はグラスを手に取った。オレンジピールのおかげで胸のすく香りがグラスに漂っていた。
「うん、うまい」
僕は満足げにうなずいた。すると、それを聞いて佐藤氏も笑顔を見せた。
「よかったら、チェイサー代わりにどうです?」
じっくりとマンハッタンロックを味わっていると、ふと僕の目の前に一つのグラスが差し出された。
「あ、すいません」
僕はそのグラス――エビスビールが注がれた一口グラスを手に取った。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
僕はそう言って、同じようにグラスを手にした佐藤氏と乾杯をした。
こんな風に時々見せてくれる彼のサービスを受けられるのも、常連ならではの特権と言っていいのかもしれない。
『ここで、水って言うんじゃ芸も無いですからね』なんて言いながら、僕は時折こうして彼rにビールをごちそうになっていた。
それがもとで、ビールと言えばその日の最初に飲むものと決めてかかっていた僕だったが、こんな風にある程度飲み歩いた後にたどり着いたバーのカウンターで飲むビールも悪くないという事を、改めて思っていた。――もっとも、これもエビスビールのようなコクのあるビールだからいいのであって、他のライトなビールだとこうはいかないだろうが……。
そんなことを考えながら、僕はエビスビールを一口、ゆっくりと飲んだ。
そう言えば、今までいくつものバーに行って、ある程度は自分なりの飲みたいものやスタイルを確立したつもりであった僕も、この店では改めて教えられたことがいくつかあった。
その内のひとつが、この『深夜のエビスビール』だったが、もう一つモルトウイスキーの楽しみを教えてくれたのもこの店だった。
元々スコッチよりもバーボン派なためと、随分以前に一度飲んだアイラモルトの癖に辟易して、モルトというものを敬遠していた僕だったが、何かの拍子に佐藤氏にハイランドモルトを勧められたことがあり、思っていたほど癖の無い飲みやすい味に驚き、それ以来たまにはモルトも飲むようになっていた。まぁ、これでまたひとつ酒飲みとしての楽しさが広がったというわけだ。
「それにしても、佐藤さんにはありがたくない話しかもしれないけど、やっぱりこの店はお客さんがいないときの方がいいね」
閉店時間が近づいて、カウンターに残ったのが僕だけになり、誰にも気兼ねすることがなくなったのを見計らって、僕は言った。
「いや、僕もそう思います。バタバタしているよりはね……」
そう言って笑う佐藤氏。そして彼はバックバーを覗き込み、しばし思案した後ボトルを一本選び出すと、ショットグラスに注いだ。そして、香りを確かめるようにした後でゆっくりと口に運んだ。
煙草も吸えば、酒も飲む。ま、こう書いてしまうといかにも素行の悪いバーテンダーのようにも思えるが、彼のその行為は実に自然で、親しみこそ持て、不快に思うことは一度も無かった。
まぁ、それもこれも彼と僕が同い年ということもあって、友達のように付き合っているから思えることかもしれないが、なにより一人で飲みに来る僕にとっては、バーテンダーである彼自身がいい飲み友達となるから都合が良かった。
それに彼の場合は、バーテンダーが飲む店だと時折見受けられる、『飲んででもいなけりゃやってられません』とでも言うような、流して飲んでいるようなところが無いから良かった。仕事の合間に飲んでいる割りには、一杯一杯お酒の味を確かめるように飲んでいる風にも思えるのだ。
そういえば以前、 僕がたまたま用があって店のオープン時間前に立ち寄った時、すでに一杯のウイスキーを口にしていたことがあった。その時彼は、ちょっと照れたようにしながら、そのウイスキーの意味を語ってくれたことがあった。
それによると、自分の舌というのは体調によって日々微妙に変化してくる為、毎日その時間に決まったウイスキーを飲んでみて、その日の舌の具合を確かめるというのだ。
まぁ、多分に言い訳もあったことだろうが、確かにそうすることによって営業中に作るカクテルなどの味見をする時、その日の自分の体調による『おいしさ』の感じ方を知ることは出来るのかも入れない。
「う~ん」
僕は思いっきり伸びをした。そして、腕時計に目をやる。と、この店の閉店時間の午前4時を30分ほど過ぎていた。
どうしよう。――僕はちょっとだけ考えた。まぁ、閉店時間を過ぎてどうしようもこうしようも無いものだが、僕は心の中の誘惑に負けて佐藤氏に切り出した。
「佐藤さん、毎度残業させてしまったすいませんが、わがままついでにあと一杯だけお願いしていいですか?」
伺うように言う僕。しかし、彼はあっさりと言った。
「あ、全然構いませんよ。何にします?」
大体がいつもこんな調子だった。そんな彼の優しい台詞についつい甘えて、いつも予定より大幅に長居してしまう。
だけど、そんな僕や他のお客さんに対しても、嫌な顔一つせずに応対してくれる佐藤氏。実に出来た人だなと思う。
「それじゃあ、バルバンクールをストレートでください」
彼の優しさに甘えて、僕はお気に入りのラムの銘柄を口にした。そして、今夜の締めの一杯をゆっくりと口に運ぶ。
「ふぅ~っ。やっぱりうまいね」
思わずため息。
だけど、そのラムがことの他おいしいのは、ラムの味そのもののせいだけではないのかもしれない。そう、そのラムの味を何倍にもおいしくさせてくれる空間、そして佐藤氏の人柄があってこその味だ。
長い長い夜の締めくくり、気の合うバーテンダーととりとめの無い話をしながら飲む一杯の酒。締めだからこそ失敗したくないその一杯を、最高の気分で味あわせてくれる。そんな感じのいいバー、そしてバーテンダーに出会えることが出来たら、こんな素敵な話は無い。
僕は、そんな自分の幸せをかみしめながら、今夜の最後の一口をゆっくりと飲みほした。
裏バージョン
キイ~ッ。
クラブやカラオケパブが入った飲食ビルの三階にある小さなカウンターバー。今日も僕はその重たい鉄の扉を開けた。
「ちわ~っす」
「いらっしゃいませ」
カウンターの中にいる、この店のオーナーバーテンダーである佐藤氏の声に導かれて、僕は店の中に足を踏み入れた。
奥に長いカウンターに、スツールが十席。この店の客席はこれだけ。ボックスの無いカウンターだけの造りと、余計な装飾を一切排したインテリアのために、いたって居心地のいい落ち着いた店だ。
深夜一時。
いつもならば落ち着いて飲める時間帯だったが、今日は仕事上がりのクラブのお姉さん達が自分の店のお客さん達と来ているようで、いつに無く賑やかに店を彩っていた。
「ちぃ~っす。お疲れ」
かろうじて一つだけ空いていた入り口に一番近い席に腰を下ろして、忙しそうにオーダーをさばいている佐藤氏の手が空くのを待っていると、オーダーの合間を縫って僕の前にやってきた彼がいつもの調子で声を掛けてるくる。
「忙しそうだね。んじゃ、ドンゾイロちょうだい」
彼が忙しそうなのを見て取って、僕はなるべく手のかからなそうなものを頼んだ。ま、この店の常連である僕と、彼の暗黙の了解ごとのようなもの。忙しい時には僕が遠慮するし、その代わり普段は常連ということで随分と優遇してもらっている。
「すんませんねぇ。また手のかからないもの頼んでくれて」
冗談めかして言いながらスーツの袖口で目元を拭う真似をする佐藤氏。
「いやいや、なんせ感じのいい客だからさ」
「すいませんねぇ、気ぃつかってもらっちゃって。……ごめんね、ちょっとゆっくりやってて」
僕の前にグラスを差し出すと、彼はそう言って再びカウンターの真中に残りのオーダーをさばくために戻っていった。
そんな彼の背中を見送ると、僕はゆっくりとグラスを口に運んだ。そして、何の気なしにバックバーに目をやった。
この店は余計な装飾が無いどころか、ライトアップされた酒のボトル以外は、グラス類も含めてすべて戸棚の中に収納されている。だから、一見すると殺風景とも思えるほどシンプルな造りをしているが、かえってゆっくり飲る時には目障りでなくていい。そう僕は思っている。
そして、インテリアの基調色は茶色と黒という渋めの色調だが、考えてみればこういったシンプルな造りの店は、東京にはたくさんあっても、案外横浜には少ないような気がする。
トゥルルル。
シェリー酒のグラスを傾けながらボ~ッと他愛の無い物思いにふけっていると、ふいに電話のベルが鳴った。と、それに応えるようにカウンターの奥の席で携帯電話に出る女性の声が響いた。
「もしも~し。お疲れ様~ぁ」
元気な女性の声が店内に響く。さっきまでも十分すぎるほどに賑やかだった店内のトーンがさらに上がった。
そんな声を端で聞いて、元々が携帯電話嫌いな僕は眉をひそめた。と、カウンターの真中では佐藤氏がカクテルを作りながらチラッとそちらを見やった。実は彼も携帯嫌いなところは僕と同じだった。
と、それを察してかどうかは知らないが、その電話の主は声高に話しながら、けたたましい足音を立てて店の外に出て行った。
それを背中で見送って、僕は思わず肩をすくめた。まぁ、いくらどかどかと背後を通られようと、店の中で声高に話していられるよりはいい。見ると、佐藤氏もすました顔でシェーカーを振っている。
「さってと、どうしようかな?」
そんなこんなで小一時間。手間のかからないシェリーを3杯ほど飲んでいる内にようやく店も空き始め、僕の他にはいい加減酔っ払って二人の世界に入っているカップルが一組残っているだけだ。
「お疲れ」僕は、ようやく手が空いて落ち着いた佐藤氏に声をかけた。
「うぃ~っす」
そう言って内ポケットから取り出した煙草に火をつける佐藤氏。
バーでバーテンダーが煙草を吸うなんて! と、眉をしかめる向きもあろう。しかし、少なくとも僕にとっては、そんな等身大の佐藤氏が応対をしてくれるという方が、変に気負ったところが無くて実に心地よかった。
そんな彼の接客スタイルも、すべて彼がオーナーバーテンダーだからこそ出来る余裕だろう。もっとも、時にはオーダーが残っているにも関わらず一服している時などもあって、実にお気楽なスタイルではあった。
「それじゃあ、久しぶりになんかカクテルでも貰おうかな」
「はいよ」
僕のそんな台詞に、佐藤氏は手を洗いながら応える。
「え~っとね、それじゃマンハッタンをビルドのロックで」
「ん。りょーかい」
うなずきながら、背後の戸棚からロックグラスを取り出す佐藤氏。そして、ライウイスキー<オーバーホルト>のボトルを手に取る。
「ドライの方がいいんだよね?」
「そだね」
そして彼は、さらに冷蔵庫からベルモットのボトルを取り出した。
僕はそんな彼の手元に目をやった。と、やっぱりグラスに氷を入れる時に、一つ一つトングでつかんだ後一度水にさらして氷の角を取ってからグラスに入れる姿が目に付いた。
佐藤氏はすべからくがこんな調子で、一杯一杯のカクテルに気を使って作ってくれるから嬉しい。そして、それはまたどんなに店が忙しい時でもすこしも崩れることが無く、ましてどこも無理をした感じが無く自然にこなすから凄い。
「オレンジピールは要るよね?」
「うん、よろしく」
彼の言葉に、僕は答えた。
それから彼は、グラスの上でオレンジの皮の小片を軽く一度だけ絞り、グラスの中に落とした。よくある形だけのバーでやたらとアクションだけ派手なバーテンダーとは明らかに違う動きだ。
いくら堅苦しくない応対をしているからといって、安っぽい印象はこれっぽっちも無く、どころかリッチな気分で酒を飲ませてくれるのは彼のこんな無駄が無く、それでいて小気味いい一つ一つの仕草が実に堂に入っているからだろう。
「お待たせしました」
「サンキュ」
軽く応えると僕はグラスを手に取った。オレンジピールのおかげで胸のすく香りがグラスに漂っていた。
「うん、うまい」
僕は満足げにうなずいた。すると、それを聞いて佐藤氏も笑顔を見せた。
「ほい、チェイサー」
じっくりとマンハッタンロックを味わっていると、ふと僕の目の前に一つのグラスが差し出された。
「あ、すまないねぇ、いつもいつも」
僕はそのグラス――エビスビールが注がれたグラスを手に取った。
「お疲れさん」
「お疲れ」
言いながら僕たちはグラスを掲げて乾杯をした。
今じゃ僕も立派なこの店の常連だから、彼も時折こんな風に気を使ってくれる。
「この時間のエビスは旨いんだけど1本は飲み切らないんだよね」
瓶の残りを再び二つのグラスに注ぎながら佐藤氏は言う。
何の事は無い、自分が飲みたいから開けたビールの飲みきらない分を僕につき合わせてるって訳だ。
まぁもっとも、そのおかげでエビスビールに関して言えば、こんなある程度飲んだ後のチェイサー代わりに飲んでも旨いという事を教わったようなものだから、ある部分彼には感謝しなければならない。
そう言えば、今までいくつものバーに行って、ある程度は自分なりの飲みたいものやスタイルを確立したつもりであった僕も、この店では改めて教えられたことがいくつかあった。
その内のひとつが、この『深夜のエビスビール』だったが、もう一つはモルトウイスキーの楽しみを教えてくれたのもこの店だった。
元々スコッチよりもバーボン派なためと、随分以前に一度飲んだアイラモルトの癖に辟易して、モルトというものを敬遠していた僕だったが、何かの拍子に佐藤氏にハイランドモルトを勧められたことがあり、思っていたほど癖の無い飲みやすい味に驚き、それ以来たまにはモルトも飲むようになっていた。まぁ、これでまたひとつ酒飲みとしての楽しさが広がったというわけだ。
「いやぁ、さとちゃんには悪いけど、やっぱこの店は暇な時の方がいいねぇ」
「ってより、正直言って俺もそう思うよ。あんまりバタバタしてっと嫌んなるもんね」
言いながら彼は、真剣な顔でバックバーを覗き込むと、やおら一本のボトルを選び出した。そして、それをショットグラスに注いで、おもむろに口に運んだ。
煙草も吸えば、酒も飲む。実にお気楽なバーテンダーだ。ま、言い方を変えれば、ああやって一つ一つの酒を口にしながら、酒の味を忘れないようにしている――なんて風にもなるのかもしれない。どちらにしても、僕にとってはそんな彼の方が親しみやすいということは事実だ。
まぁ、それもこれも彼と僕が同い年ということもあって、友達のように付き合っているから思えることかもしれないが、なにより一人で飲みに来る僕にとっては、バーテンダーである彼自身がいい飲み友達となるから都合が良かった。
「う~ん、やっぱりちょっと調子良くないなぁ」
グラスのウイスキーを口にした後、彼はポツリと呟いた。
「なに? 飲み過ぎじゃないの?」
そんな彼の台詞に、僕は冷やかしの声をかけた。それほど彼は、営業中でも実に良く飲んでいた。ま、とは言っても酔っ払ってるのはほとんど見たことは無いけれど……。
「いやぁ、ここんとこなんか調子悪くってさ。今日店開ける前に飲んだ時、あんまりおいしく感じなかったんだよね」
「あんたは店開ける前から飲んでるのか」
僕は半ばあきれて言った。
「いや、いつもオープンの準備が終わって、さぁって時に決まった酒を飲むんだけどさ、それが体調によっておいしいかおいしくないかで、その日どれ位飲むかを決めるんだよ」
「普通そういう場合は『その時のお酒の感じ方で、営業中に作るカクテルの味見の時の自分の舌を計ってる』ぐらい言わない?」
「あ、それカッコイイね。今度使わしてもらうわ」
そして笑う佐藤氏。一事が万事この調子だ。
「う~ん」
僕は思いっきり伸びをした。そして、腕時計に目をやる。と、この店の閉店時間の午前4時をもうはるかに過ぎていた。
どうすっかな。。――僕はちょっとだけ考えた。まぁ、閉店時間を過ぎてどうしようもこうしようも無いものだが、僕は心の中の誘惑に負けて佐藤氏に切り出した。
「ねぇ、毎度遅くまで悪いけど、あと一杯だけいい?」
「あ、全然構わないよ。どうせ俺も飲んでるし」
大体がいつもこんな調子だった。それは彼の優しさでもあるのだろうが、この店は一応閉店時間は4時と決まっているものの、実のところお客さんが帰ったときが閉店時間というようになっていた。
もっともその分暇な時なんかはさっさと3時ぐらいに店を閉めていることもあって、あっけに取られることもあったが……。
「んじゃ、バルバンクールをストレートでちょうだい」
佐藤氏の言葉に甘えて、僕はお気に入りのラムの銘柄を口にした。そして、今夜の締めの一杯をゆっくりと口に運ぶ。
「ふぅ~っ。やっぱりうまいね」
思わずため息。
長い長い夜の締めくくり、小さなバーで気の合うバーテンダーととりとめの無い話をしながら飲む一杯。これが最高の気分で味わえるかどうか。それは僕にとって何物にも代えがたい重大な関心事だ。
だから、この店と佐藤氏に出会えたことを、僕は本当にラッキーだと思っている。そして、この感じのいいバーで、僕自身感じのいい客でありたいと思ってもいる。ただ、難点を一つだけ言うとすれば感じが良すぎていささか長居をしすぎてしまうのだが……。
僕は、そんな自分の幸せと少々の反省の思いをかみしめながら、今夜の最後の一口をゆっくりと飲みほした。
あとがき
以前ウェブに公開時の画面構成は、このエッセイの構成上左右に画面を分けて、表と裏を比較しながら読める並列記載となっていた。
しかしながら、現代はスマホにて読んでいただける方も多いと思い、オリジナルとは違い表と裏を順番に縦列記載とすることにした。
(そういう訳で、文中の添付画像もすべて同じものが2枚ずつ貼ってある)
そのため、かえって冗長な文章となってしまったかもしれないが、そのあたりはご了承いただきたい。
追記
上記の文章はそれぞれ、随分以前に僕が書いて<Bar moonlit club>の佐藤氏に僭越ながら差し上げた物で、僕の手元には残っていなかったのだが、この度店の大掃除中に発見された原稿を彼の手元から預り改めて加筆訂正して掲載した。
そのため、正確なデータがないために1996年に書いた文章かどうか筆者も佐藤氏も覚えておらず、恐らくその頃に書いたであろうということでご了承願いたい。
この文章が他の店について書かれたエッセイとは確実に異なっている処は、一見して分かる通り『表バージョン』と『裏バージョン』という2バージョン制で書かれている処だろう。
まぁ、『表』と『裏』がどのように違うかという事についてここで深く触れることはあえて差し控えるが、少なくとも<ムーンリットクラブ>という店と佐藤氏というバーテンダーを<ムーンリットクラブ>の初級者とディープな常連客という2つの側面から的確に捉えているということは、僕は勿論佐藤氏自身も大いにうなずくところでもあるようだ。
さて、この原稿を書いた頃から少なく見積もって6~7年ほどの時間が経過し、<ムーンリットクラブ>早いもので来年で10周年を迎えようというまでになった。
その間僕も佐藤氏もお互いに歳を取ったし、店のあり方も酒の飲み方もいささかの変更はあった。それについて多少書き添えたいと思う。
まず一番の変更点と言えば、彼の店も新しく若いスタッフを入れ最近では二人体制で店を切り盛りしている為、多少店が混んでいる時でも比較的佐藤氏とゆっくりと話をすることが出来るようになった。このことは同時に彼の店のフードメニューの充実という処にも一役買っている。
それから、この1996年の時点で佐藤氏と僕や何人かの常連客が面白がって始めたシガー(葉巻)が最近では定着して、彼の店にはシガーを置きそれをたしなんでいる客もちらほらと見受けられるようになった。
そして最後に一つ。この当時は携帯電話はそれほど普及しておらず、僕自身も持っていなかったわけだが、最近では僕も佐藤氏もご多分に漏れず携帯電話は持っているし、それ自体を嫌っているということはない。
ただし、未だに静かなカウンターバーで大声で電話を掛けている姿に接すると眉をしかめたくなるのは変わらないしどうかと思う気持ちは相変わらずだ。
と同時に僕自身もカウンターで電話を受けることなどもあるのだが、なるべく簡潔に小さな声でと心がけてはいる。長くなるようなら店の外に出るという配慮は忘れたくないものだとも思う。
いずれにしても、せっかくの憩いの場を乱すこと無いようにと戒めたいところでもある。
そんなわけであるから、彼の店は今でもやはり居心地が良く、感じのいいバーではある。
2003.2
追記2
上の追記からさらに6年近い歳月が経過した。
今では彼の店で働いていた若いバーテンダーも独立し、現在は佐藤氏が一人で店に立っている(週末の早い時間のみアルバイトがいることもあるが)。
そして、僕と佐藤氏との関係は相も変わらずダラダラと良い関係を続けている。
僕にしても佐藤氏にしても、この歳月の間に少しは丸くなったかもしれない。
そして、僕が最も気に入っているバーである事は今も変わらない。
2009.1
2020年のサケサカより
正直なところ僕が日本で一番好きだったのがこのムーンリットクラブだ。
けれど、2012年9月15日をもってムーンリットクラブは惜しまれつつ18年の歴史に幕を閉じた。
様々な事情があると思う。
飲食店を経営していく厳しさは、僕もよく知っている。
ただただ、残念でしか無いが、佐藤氏は現在は麻布にあるとあるバーで店長として毎日シェーカーを振っている。
少し前に僕も顔を出してみた。
相変わらずのうまいカクテルと佐藤節に、頬が緩む思いがした。
2020.6